私の55歳の誕生日の2日前に父は息を引き取り、そのあとの3日間は私にとって30年ほどの長さに感じた。
父はとても手先の器用な人だった。
趣味は私が覚えているだけでも、8ミリビデオ、カメラ、油絵、手品、機械いじり、ミシン、日曜大工、山登り……。
どれも玄人肌でかなりの腕前だった。
それでもキラリと光る特別な才能があるわけではなく、きちんと教室に通い丁寧に習って覚えるという作業に時間を惜しまなかった。
子供の頃は私達の運動会を8ミリビデオで撮影してくれ、電気を消してカタカタカタという音が始まると映写会が始まるというワクワクを覚えてる。
手品はラクテンチで手品ショーのバイトをしていたらしく、子供だった私たちはいつも裏口からお金を払わずに入場していた。
私が臼杵で中学校の先生になり一人暮らしを始めたときには、修理した目覚まし時計をいくつか持たされた。
父が会社を定年退職してすぐに通ったのは職業訓練校。そこでは憧れだった溶接を習った。訓練校の卒業制作で作ったバーベキューセットは今でもみんなで使っている。
私がビーベップでマップを描くというと、すぐに発明品が届いた。何をどう継ぎ合わせたのか得体の知れない投影機?みたいなもので、それのおかげで下の絵を透かしてマップが描きやすくなった。
辛かったとか、大変だったとかいう苦労話をしたことがない父が一度だけした話があった。危篤状態の父が病室で酸素マスクをして眠っている姿を見てその話を思い出した。
父が就職して初めての冬、身体の弱かった祖母が危篤状態になった。父は、狭間の山奥から祖母をリヤカーに乗せて大分の日赤病院まで何時間もかけて運んだ。何度思い出しても切ない話であるが、それに比べて私はただ父が苦しそうに息をするのをそばで見守っているだけだと思った。
父は母を連れて日本中の山を登った。キナバル山に登ったというのが今でも母の自慢である。
定年退職後、海外旅行や山登りを楽しむ両親にも最悪の時代があった。
私の弟が28歳で心筋梗塞により急死した時だった。
弟の葬儀の間でも一度も泣かなかった父が喪主の挨拶で
「来年の今頃にはまた、私たちの大好きな山に登って、頂上で、壮一バンザイ!とそう叫びたい」そう言って声が大きく揺れたのを忘れない。
父は、自分のお葬式では油絵の自画像を飾って欲しいと何枚も書き残していた。
亡くなってそれを思い出しみんなで探したが見つかったのはこの一枚。
葬儀社の粋な計らいで大きく引き伸ばしパネルに入れかっこよく飾ってくれた。
メガネを落としてこっちを見る父は生前そのままで、父をよく知る人は思わず笑ってしまうほどだった。
苦労話もしない、自慢話もしない、ただ黙々と自分のしたいことをする、そんな父だった。
55年目にして私のこの人生は、父と母からの贈り物だったんだと初めてそれを考えた誕生日だった。